关于日本导演熊井启的介绍,最好有中文和日文的对照,越详细越好

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关于日本导演熊井启的介绍,最好有中文和日文的对照,越详细越好 摘自 百度百科 熊井启 日本导演
熊井启(1930—2007)Kumai Kei
1930年6月1日,熊井启出生于小富的地主之家。母亲赋予了熊井启浓厚的书卷气。1953年他从信州大学文理学部社会系毕业,随后进入电影界,从底层开始做起。
当时日活公司因为重开制片业,机制灵活很多,新跳槽进来的年轻人如今村昌平、铃木清顺,一跃当上了导演,还被冠以“日本新浪潮”的头衔。熊井启是战后第一批大学生和第一批进入电影界的精英之一,他比别人都要早进日活公司,却仍然按部就班地跟在田坂具隆、阿部丰等师傅的屁股后边,老老实实地熬着副导演的日子。直到1964年,日本新浪潮行将落幕,熊井启才推出处女作《帝国银行事件·死刑囚犯》。
影片以1948年真实发生的事件为原型。帝国银行大厦东京椎名街支行16名职员被人蓄意欺骗服下剧毒的氰化腈,导致其中12人死亡。警方随后指控一流蛋彩画家平泽贞通有罪。熊井启在这部影片中采取了一种对于政府判决高度质疑的态度,声援被判了死缓的嫌疑犯,认为这是强势力量的栽赃。他在影片中提示了这样的背景:美国图谋利用731部队和南京1644部队进行剧毒物活体实验的数据,避开军事法庭的审判,释放了相关战犯。
熊井启尖刻地指出:“政治干预艺术活动十分危险……应该把如何争取表达的自由和抵制政治干预的问题作为一个迫切问题加以考虑。”熊井启的拍摄常常和政府、业界高层等强势力量紧张冲突。《日本列岛》完成后,日本警视厅曾强硬要求剪掉一部分带点性爱镜头的关键戏,理由是过于猥亵;《黑部的太阳》是由分属东宝的三船敏郎和日活的石原裕次郎这两位大明星投资,由属于日活公司的熊井来拍摄,这种独立制片的方式直接影响到电影公司的经济利益。日本五大电影公司于是以三人违反“五大公司协议”(五社协定)为名,逼迫熊井启妥协。导演《朝霞的诗》时,又因在外景地拍摄裸体镜头有碍观瞻而被要求写检讨……当然,作为生带反骨的战后电影精英之一,熊井启不但没有照做,还对强势进行了嘲笑。这种反骨还促使他批判老前辈小津安二郎:“公司说什么,小津就照着做什么,简直像个‘小姐’。”
这种反叛的态度使熊井启无论从艺术上还是商业上都列席于现代日本电影大师的群体中:自《帝国银行事件·死刑囚犯》获得日本剧作家协会奖,《海和毒药》获柏林银熊和评审团大奖,《千利休·本觉坊遗书》获威尼斯银狮奖;《黑部的太阳》在1968年上映时,打破了由《东京奥林匹克》保持的国产电影上座纪录。
1971年秋天,应周恩来总理的邀请,时任日中文化交流协会办公室主任的白土吾夫安排了包括熊井启的一行人访华,参加庆祝建国22周年的庆典活动。熊井启自幼读过不少汉籍,“当我沉浸在战败的痛苦中时,正是以杜甫的《春望》为代表的多首诗篇慰藉了我苍凉的心”。这一次,他终于亲自踏上了玄奘翻译经文的大雁塔那嘎吱嘎吱响的旧梯。他站在沧桑的城墙上,坚定地认为自己的这次西安之旅是在“寻访我的心灵故乡”。在北京人民大会堂接受周恩来的亲自接见后,周恩来谈到了不少有关国家政治和祖国统一的问题,熊井启不禁萌生了日本电影应该表达赎罪心理的思考。回国后,他开始构想拍摄大型纪录电影《中华人民共和国》,并立即着手写出了厚厚的剧本,交给与中国联系颇多的朋友们帮忙。因为特殊的时代关系,这一夙愿最终流产。在不久之后的1972年,来自意大利的共产党员、电影导演安东尼奥尼拍出了他的《中国》,随后就被指责为“恶毒的用心、卑劣的手法”。
1980年,熊井启终于寻找到一个机会,表达他对中国的深厚情感。这就是改编自著名文学大师井上靖同名原作的《天平之甍》(1980)。这是一个关于鉴真东渡的故事:来自日本的荣睿法师和一众留学僧,祈请鉴真大师东渡传授佛学。被留学僧人的热情所打动,鉴真克服重重困难,辗转多途,在年老眼瞎的时候终于东渡成功。熊井启请出了常与小津安二郎等人合作的依田义贤捉刀,并通过日中文化交流协会会长中岛健藏和白土吾夫等人的努力,得到时任文化部副部长的司徒慧敏先生的支持。剧组得以在扬州、苏州、桂林和海南等地实景拍摄。为了重现大唐盛世的宏伟宫殿,他甚至在故宫的太和殿取了景。他成了建国后得以进入故宫拍摄的外国导演第一人。
熊井启是在筹备作为纪念作品的影片《破狱》时突然病逝的。2002年的《大海见证》成为他的遗作,尽管那不是一部令人耳目一新的作品。
摘自百度百科
日文部分 摘自 维基百科
くまい けい
熊井 启
生年月日 1930年6月1日
没年月日 2007年5月23日(満76歳没)
出生地 日本・长野県南安昙郡豊科町
(现:安昙野市)
民族 日本人
职业 映画监督、脚本家
ジャンル 映画
活动期间 1954年 - 2007年
配偶者 熊井明子
熊井 启(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)は、1960年代から2000年代にかけて活动した日本の映画监督。妻はエッセイストでポプリ研究家の熊井明子。
多くの监督作が『キネマ旬报』ベスト・テンに选出され、ベルリン映画祭やベネチア映画祭の各赏を受赏した。日本を代表する社会派映画の巨匠である。
长野県南安昙郡豊科町(现安昙野市)に、地主の父、元教师の母の息子として生まれる。旧制松本中学(现长野県松本深志高等学校)、旧制松本高校を経て新制の信州大学文理学部へ入学。大学时代は演剧と映画の日々を送っていたが、関川秀雄监督の诱いで、卒业后は独立プロの助监督へ。さらに1954年日活撮影所监督部に入社する。そこで久松静児、田坂具隆、阿部豊、牛原阳一などの助监督に付くかたわら脚本家としての仕事もこなす。
1962年に明子夫人と结婚。1964年、帝银事件について、绵密な调査と考证をもとに被疑者であった平沢贞通画伯を无罪とする立场から事件経过をドキュメンタリー・タッチで描いた『帝银事件 死刑囚』で监督デビュー(脚本も务めている)。监督2作目の『日本列岛』では、戦后の日本で起こった谜の多い诸事件を米国の谋略と関连付けて追及し、骨太の社会派监督として注目されるようになった。
1968年には、三船プロダクションと石原プロモーションが共同制作した大作『黒部の太阳』の监督に抜擢され、当时の映画界に厳然として存在していた五社协定の圧力にも负けず、三船敏郎、石原裕次郎、佐野周二、滝沢修、高峰三枝子ら豪华なスター共演によって黒四ダムの建设を见事に描き、成功を収める。1969年に日活を退社し、退职金を投入して『地の群れ』を制作。以后フリーの映画监督して活跃し、三浦哲郎原作の芥川赏受赏作を白黒で美しく撮影した『忍ぶ川』(1972年)でキネマ旬报ベストワン及び监督赏、芸术选奨などを受赏。
1974年には东南アジアに娼妇として売られた「からゆきさん」に题材をとった田中绢代出演『サンダカン八番娼馆 望郷』でベルリン国际映画祭银熊赏、キネマ旬报ベストワン及び监督赏を受赏し、アカデミー赏外国语映画赏にノミネートされるなど、重いテーマを扱いながら、重厚な人间ドラマを完成させ、海外からも高い评価を得た。
その后も初の时代剧『お吟さま』、戦后日本映画で初の中国ロケを敢行した井上靖原作『天平の甍』などを経て、1986年には戦时中に九州で起きた米军捕虏生体解剖事件をもとに医师の戦争责任を问うた远藤周作原作の『海と毒薬』を発表し、再びベルリン国际映画祭银熊赏・审査员特别赏、毎日映画コンクール大赏、3度目のキネマ旬报ベストワン及び监督赏を受けるなど国内外で评価された。その后も社会性の强いテーマを内包した作品を立て続けに発表し、独自な世界観を确立し、昭和を代表する社会派映画监督として知られた。
1989年、三船敏郎出演の『千利休 本覚坊遗文』でヴェネツィア国际映画祭银狮子赏・监督赏を受赏。2001年には松本サリン事件を描いた『日本の黒い夏—冤罪』でベルリン国际映画祭に特别招待され、ベルリーナ・カメラ赏(特别国际功労赏)を授けられた。
1995年、紫绶褒章を受章。
2007年5月18日早朝に私邸の敷地内で倒れているところを発见され、搬送された病院で意识を回复したものの、5月23日午前9时51分、クモ膜下出血のため死去。享年78(満76歳没)。新作の准备に意欲を见せていた中の无念の死だった。
2007年7月11日、东京・青山葬仪所に於いて『お别れの会』が催された。
かつて吉永小百合の母・和枝の面前で泥酔して暴れ、和枝の著书『母だから女だから』(立风书房、1976年)において名指しで痛烈に批判されたことがある。
摘自 维基百科

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